何もかもを忘れてしまいたい。心の底からそう願ってしまうほどのむなしさとかなしさを抱いていた。
 ただのひとことでは言い表すことの出来ない、深い深いむなしさとかなしさは、やがて涙となってわたしの両目からあふれ出す。ぽろり、落ちたのは透明な滴だった。それはわたしの目からこぼれ、なめらかに頬を滑り、膝に転がった。透明な滴はわたしの指に挟まれ陽に透かされる。すると何面にも細かくカットされたティア・ドロップは、宝石がごときうつくしさで涙で潤んだ視界をまばゆく突き刺した。精緻なカットの一つ一つが光を反射する様はあまりに眩しい。透明な涙の粒の向こう側には青空が見え、それがまたわたしの視界を青く染め上げては涙をあふれさせるのだった。
 落ちた涙の滴はけして消えることなく、私の足下に転がっていく。滴同士がぶつかっては涼やかな音を立てるが割れることはない。わたしはこの、たしかな形をもった涙がいったい何なのかを知らない。ただ、そういうものだと受け入れてもはや数年が経とうとしていた。そうなるともう、わたしにとって涙とはこんな、きらきらと輝く石の形をしているものであって、頬を濡らす暖かさや濡れた後の冷たさも、記憶の外へと放り出されて忘れ去られてしまった。はたしてそれが良いことか、悪いことかはあいにく判断はつかない。涙の形をした宝石らしきものはうつくしかったし、拭う手やハンカチを汚すこともなくなった反面、人前で泣くことを耐えねばならない。ひとり静かに泣き、自分の足下を埋め尽くす目映いティア・ドロップを眺めるたび、わたしの心からは何かが失われていくような気がした。
 わたしの目の表面はこんなにも水分で潤んでいるというのに、それが目を離れたとたん、凍ったように形を変えて涙はこぼれる。静かに目を伏せた。なにも見えない暗い世界の中、滴が落ちる高い音ばかりが響く。こぼれ落ちた涙を手で掬うように、必死に集めていた頃はとうの昔に過ぎてしまった。ひどくけだるい。はたしてわたしはなぜ泣いているのか、その理由さえもなくしてしまったのかもしれなかった。こうなってしまったわたしには、こんなになってまで涙を流すことの意味が分からないのだ。ただ、何もかもを忘れてしまいたい。心の底からそう願ってしまうほどのむなしさとかなしさを抱いていた。あるいは、それだけの理由だった。それだけの理由が、わたしの涙腺を奇妙なほどに緩めては、透明な滴を零すのだ。

「花に付いた朝露を飲みなさい」

 白衣を着たその人は、とうとうと涙を流す私を見てひとことそう言った。花に付いた朝露を飲みなさい。朝早く、日の出と同じくらいに起きて、外で待つのです。庭に咲いた薔薇よりも、山際に生えた白い百合の方が良い。ひっそりと花開いた百合の花弁、そのすべらかな表面に光る、ほんの一滴の朝露を飲みなさい。それを百合が咲かなくなる季節まで続けるのです。
 白衣を着たその人を、わたしはせんせい、と呼ぶことにした。白衣に黒い鞄をひとつ持った彼の人は、診察代にわたしの涙を一粒欲しい、と言った。ひとしきり涙を流したわたしは、たくさん転がった涙の滴の中から、特にうつくしいと思ったティア・ドロップを一つ、小瓶に入れて渡した。せんせいは目をすがめてそれを見た。わたしがしていたように、陽に透かし、光の反射に目を細め、うつくしい宝石ですね、とほんの少しだけ、笑った。
 次の日の朝から、言われたようにわたしは日の出と同じくらいに起きて、山際の百合を探した。陽が昇る頃はまだ空気はつめたく、百合を見つけるまでに歩いたわたしの足は草の露で濡れていた。草をかきわける手もまた朝露で濡れ、踏みしめた緑の草の匂いと、水の匂い、そして山の匂いが体中に染みついていた。
 百合は思ったよりも簡単に見つかった。
 大きなつぼみは先端が白く、微かに開く程度で、まだ咲くには早かった。けれどその先端に一滴、朝露がついているのをみとめたわたしは、そっと百合のつぼみにくちづけた。まだ開かぬ花弁の奥から香る百合の香は甘やかで、無気力なわたしの胸にす、と入り込み、ほんのかすかなぬくもりを残していったようだった。失われるばかりで何にも満たされないわたしの中に、それは確かに存在したのだということがうれしかった。ぽろり、と目から落ちたのは涙だったが、そういえば、涙はかなしいときばかりに流れるものではないのだった、ということを思い出し、落ちたそれを指先でつまんだ。心なしか、薄く色づいているような気がした。
 それをせんせいに伝えると、良い方向に向かっている証拠です、と教えてくれた。毎朝朝露を一滴ずつ飲んでいけば、きっと透明な涙は色を変えていくでしょう。けれどこわがる必要はありません。きっと良くなります。教えてもらったお礼に、薄く色づいた涙を先生に渡すと、やはり先生はうつくしい宝石ですね、とほんの少し、笑った。
 百合の花はあっという間に花弁を大きく開いた。日の出と同じくらいに起きて、手足を草の露で濡らし、緑と水の匂いをまとわせながら、わたしは百合にくちづけては朝露を一滴吸った。すでに大きく開いた百合の花はその甘い匂いを惜しげもなく広げ、いつもわたしを待っていた。百合の花弁についた朝露は、百合の香りのように甘かった。それを舌先で感じ、ほんのわずかな水分を飲み干すたび、わたしの目からは一粒だけ、涙がこぼれた。涙はだんだん色づいて、やがて薄紅へと変わっていった。
 このまま朝露を口にしていけば、やがてわたしの涙は色を濃く変えていくのだろうか。薄紅は紅へと変わっていくのだろうか。拾い上げた一粒一粒を、わたしはせんせいに渡すことにした。せんせいはいつも、陽に透かしてはうつくしい宝石ですね、とほんの少し、笑った。せんせいの指の間で輝く薄紅は、目を突き刺すような輝きではなかった。精緻なカットのティア・ドロップはやわらかに輝いて、触れればきっとあたたかい。
 何もかもを忘れてしまいたい。心の底からそう願ってしまうほどのむなしさとかなしさを抱いていた。けれど、忘れれば忘れるほど、抱いたむなしさとかなしさは重さを増した。やがてそれはわたしの手に収まりきらなくなり、地に落ちて、突き刺すような鋭利な輝きでわたしを責める。頬を流れる涙のあたたかさを忘れてどれくらい経ったのだろうか。
 百合は満開を過ぎ、日に日にしぼんでいった。甘い香りは廃れ、うなだれた花は純白を失いつつあった。わたしは日の出と同じくらいに起きては手足を濡らし、百合の朝露を一滴だけ吸った。もうこの頃には、わたしの目から溢れる涙は、はっきりと赤い色をしていた。
 涙はもとは血液だったのだと、教えてくれたのはやはり、せんせいだった。だからこのティア・ドロップは赤いのだ。あなたがどうして血を流しているのか、知っているでしょう、とせんせいは言った。はい、とわたしは静かに答えた。小瓶に収まったわたしの涙の滴は透明から赤のグラデーションとなって、日の光を浴びていた。鮮やかな赤い色が私に言う。体が痛くなくても血は流れるのよ?
 もはや枯れゆくばかりの百合の花の朝露を、もうわたしは吸わない。ただ、水分を失いつつある花弁にそっとくちづけ、残された朝露を人差し指でしずかに拭う。そうしてようやくわたしは、涙の拭い方を思い出した。ぽつり、落ちた涙が枯れた百合の上に落ち、まあるい水滴を残した。




mzk_mikは涙のかわりに宝石がこぼれる病気です。進行すると無気力になります。花に付いた朝露が薬になります。