実識七生の家には大きな蔵がある。
 もともと実識家のある地域は、明治時代以前から続く船場町だったらしい。近くを流れる川には船が行き交い、川沿いには商家が並んでいた。実識家も例に漏れず、七生の曽祖父までは商人として商いをしていた。家の敷地に蔵があってもなんらおかしくないのは地域柄で、商人を辞めて数十年経とうとも、蔵を残し続けるのも珍しくない光景だった。
 曽祖父の代から数十年、未だ残り続ける実識家の蔵は、ひっそりと佇みながらも常に客を待っている。
 蔵の中にあるのは商品ではない。誰かに見出され、使われることを望む、曰く付きの品ばかりである。商人を辞めた七生の曽祖父が、あるいはそれ以前の誰かが、商いをする中で見つけたのか、はたまた自分から探し出したのか。もはや所以の分からない、けれど捨てることが許されない、そんなものばかりが、実識家の蔵には眠っている。
 実識七生は蔵守である。蔵の中の物の世話をして、時が来たら誰かの手に渡す。実識家の蔵の中身を求めてやってくる客は人に限った話ではない。それら人でないものと七生は、不思議なほど相性が良かった。時に両親の目に見えない客をもてなす七生を、誰かが蔵守と呼んで以来、彼自身も己をそう表すことにしている。



 その日の客は、三つ目の爺だった。
 古ぼけた着物を着た三つ目の人あらざる者は、春の嵐が止んだ夜に、ひょろりとやってきた。丁寧に菓子折を手に、七生の家のインターホンを鳴らし、ちょいと入れてくれはしないかね、と、好々爺の体だった。

「花見の出来る杯が欲しくてなあ」

 真っ白な髭を揺らして笑う爺を客間に上げ、茶と茶菓子を出し、蔵から持ってきたのは桐箱に入った漆塗りの杯だった。杯の内側には桜らしい花の蕾が二つ並ぶばかりで、他に飾りはない。爺はそれを手にとっては、矯めつ眇めつしていた。
 試しに酒を注いでみれば良いだろうかと腰を上げると、いつの間にか客間の入り口に、盆に置かれた日本酒が構えていた。同居人がこっそりと用意してくれていたらしい。まだ成人を迎えていない七生に酒の良し悪しは分からないが、長く生きている同居人が選んだのだから、おそらく良い物なのだろう。もしかすれば七生の父の秘蔵の品だったかもしれないが、客に出すものなのだから、と七生は潔く封を切った。
 爺は酒の銘柄を見て、嬉しそうに三つの目を細めた。

「良い酒だ。お前さんの父親か、それともお前さんの相棒の趣味か」

 杯を乾いた布で念入りに拭い、爺の手に持たせてから、そっと酒を注ぐ。アルコールの匂いは花のような芳香を漂わせ、小さな杯を少しずつ満たしていく。確かに良い酒なのかもしれない、とひとり思う。酒の味は分からないが、きっと口に含めば微かに甘く、柔らかな味がするのだろう。
 二人、額を突き合わせるように、酒が注がれていく様を見ていた。黒い杯の底に描かれた花の蕾が酒に浸され、満ちる勢いに揺らぎ、その姿をゆっくりと変えていく。固く閉じていた花びらが、酒の香りに誘われたかのようにゆっくりと花開いていく。限りなく白に近い色が、さざ波に洗われるように薄紅に色づいていく。まさしくそれは桜だった。寄り添うような二つの蕾が、漆塗りの夜の中でひそやかに咲いていた。
 柔和な爺の顔に、喜びと驚きが浮かんでいた。ぱちりと三つの目が同時に瞬きする。七生は小さく頷き、無言のうちに注がれた酒を勧めると、爺は酒で満たされた杯を、誰かに捧げるように高く掲げた。

「花が咲けば雨が降り、風が吹くものだが、これなら憂うる必要もなかろうよ」

 それでは一献頂戴しよう、と爺は嘯き、そうして杯を飲み干した。



 杯と引き換えに、爺が置いて行ったのは、古びた簪だった。持てばしゃらしゃらと鳴る金色は、少しくすんでいたが、磨き直せば元通りの輝きを取り戻すだろう。随分と古いようだったが、欠けたところはない。大事に使われてきた証だ、と、杯を入れていた桐箱に、布でくるんで収めた。あとは蔵に収めるばかりである。
 封をし直した酒瓶を手に台所へ行くと、紺青の着物に薄鼠の羽織を着た男が、待っていたと言わんばかりの様子で立っていた。

「おお、来たか。その酒を待っていた」

 手には男が愛用する杯が一つ。ため息をついて酒瓶を手渡せば、彼はにんまりと笑って冷蔵庫を指さした。つまみを作れ、ということらしい。
 酒の代わりにサイダーがあることを確認して、夕食の味噌汁に使った油揚げの残りとしょうが、ねぎを取り出し、まな板に向かう。そういえば、と、七生の同居人は酒瓶を抱えながら言った。

「花に嵐のたとえもあるぞ、だな」
「……?」
「勧酒という詩だ。あの爺はもしかすれば、誰かと別れたのかもしれん」

 まァ、言うだけ無粋だがな、と男は笑うだけだった。
 はてなんのことだろうかと首を傾げながらも、すぐに思いついたのは簪だった。金色の、今まで誰かが使ってきたのであろう簪は、きっとたおやかな女性によく似合う。持てばしゃらしゃらと鳴る、少しくすんだ金色は、大事にされてきたのだと物言わぬ姿で語る。物は使われなければ存在する意味がない、とは、男の口癖だ。まったくその通りであると七生は知っている。誰かが使うために作られた物ほど美しいものはない。誰かが使った軌跡が刻み込まれた物ほどよく語るものはない。だから、七生の家の蔵にはたくさんの物が眠り、七生もまた、訪れる人々へ眠る彼らを手渡すのだ。
 三つ目の爺が必要とした杯と、それと引き換えにやってきた簪は等価だ。男が簪を手放す理由を推し量れないほど、七生は子供でもなければ野暮でもない。感じたのは寂寞と、少しばかりの悲哀と、祈る心だった。
 台所の窓から外を見れば、裏庭に咲いた桜がよく見えた。春の嵐が止んだ夜、澄んだ闇色の中、うっすら光を放つかのような花々は、まさしくあの杯の中の桜、そのものだった。さよならだけが人生だ、と、男が言う。ならばあの杯も、杯に注がれるだろう酒も、きっと誰かへの手向けなのだろう。寄り添うように咲いた二つの花が、柔和な妖の慰めになれば良い、と思う。



 実識七生の家には蔵がある。
 その中に金色の簪を一つ置く。誰かに長く使われたであろう装飾品は、またいつか、似合いの誰かの元へ辿り着く日を待つ。蔵の中に眠る品々はそうして、誰かの手に渡る日を夢見ているのだ。