私は、別れを告げなければならない。
 そう言い聞かせる。何度も言い聞かせる。短い言葉は重く私の腹の中に沈み、苦しみになる。言葉にすればたった四音の言葉を口に出すのに、どれほどの覚悟と痛みを抱えなければならないのだろう。鬱々とした気分を抱え、三月の日差しが降り注ぐ道をのたのたと、醜く歩いて進む。誰でも良いから私を嘲り笑って! こんな無様な姿の私を、誰か。
 けれど道行く人などいないし、すれ違った猫に私の思いが通じるはずもない。ましてや広い庭の主が、私が別れを告げなければならないその人が、この私を嘲笑してくれる訳がなかった。静かなまなざしが脳裏に浮かぶ。色の薄いその人が常緑の庭の中に佇み、私を見つめる、色のない、透明な目が。
 門にはいつだって鍵がかかっていない。おまえがいつ来ても入れるように開けておこう、とその人が言ったからだ。冬が終わったばかりの世界の中で、ここだけは季節など知らないと言わんばかりに緑の葉を茂らせ、鮮やかな花を咲かせている。昔からそうだった。そしてきっと、これからも。この庭はたった一人のために存在する。植物たちは庭の主のために花を咲き誇らせ続けるのだ。

「……あのね」

 真っ白なその人はやはり、緑に囲まれて立っていた。うっすら微笑んだなめらかな頬に、緑の影が色濃く落ちていた。こんにちは、も、ひさしぶり、も、何も言わない私を責めることはない。まっすぐな目だけが何かを語る。見つめられていると意識したとたん、私の喉は凍ったように固まってしまった。吐き出そうとしていた言葉が石になって喉の奥にとどまり、呼吸ができなくなる。ああ、だめだ、だめだ、だめだ! 私は、言わなければならないのだ。言わなければ。
 私は、別れを告げなければならない。

「あのね、私、ね、大学、合格したの」
「そうか」
「それで、県外に、行かなきゃいけなくて」

 だから。

「だから、私、今日で」

 今日で終わり。今日でおしまい。私はあなたと、さよならをする。あなたとお別れをする。あなたと離ればなれになる。あなたをおいていく。あなたを一人にして、私はひとり、大人になっていく。決して老いることのない真っ白な人を、常緑の庭の主をおいて。

「さよなら」

 その人は微笑んだまま、眩しいほど白い手を伸ばして花を手折った。流れるような動作で私との距離を詰め、何も反応できない私の耳元へと手折った花を挿す。私はただ俯いていた。目を合わせてはいけないと思ったのだ。その人の顔を見てはいけない。絶対に見てはいけない。目を合わせたそのとき、私はくずおれるだろう。泣き出し、目の前の人へすがりついてしまう。この庭に迷い込んだ私が幼い頃から何一つ変わらない、人ですらないかもしれないこの小さくて奇妙なけれど美しい世界の主人から、離れられなくなってしまう。
 私は、別れを告げなければいけないのだ。他の誰でもない、私自身のために。そうして別れを告げて、ごくごくふつうの人生を歩んでいくのだ。きっと私は大学に通って、誰かと恋をして、時々喧嘩をして、そして結婚して子供を産む。ありふれた、けれど幸せな家庭を築き、ゆっくりと死んでいく。そうしなければならない。初恋は叶わないものでなければ。
 三月の冷たい空気の中、むき出しの私の手が冷たく震えていた。立ち去らなければならないのに、体が言うことを聞いてくれない。緑の反射が眩しい。さわやかな空気。光を浴びた植物たちが喜んでいる。日光を、空気を、何より庭の主がそこにいることを。

「待っている」


 その一言が私を絶望させる。この人は永遠にこの庭から出られないと言うのに、私を追いかけてくることなどできないと言うのに、ああ、だからこそ、私は別れを告げられると愚かにも、思ってしまったのだ。静かな一言に何もかもを悟る。この人は私を追いかけてこない。追いかけるのは私だ。たとえこの小さな世界から出ていくことはできなくとも、この人にはさしたる問題ではなかった。
 絶望の底はかすかに甘い。たった一言、それだけが私を縛って離さない。この人は私がこの庭に戻ってくることを知っている。逃げられないと、この人の元から永遠に離れることなどできやしないと、確信している。
 腹の底に溜まった苦しみが、少しずつ、少しずつ、形を変えていく。足が冷たい。感覚をなくしてしまうほど温度をなくした足は凍ってしまったかのように動かなかった。走り去ることなど出来やしない。この人に背を向け、永遠に去ることなど、決して。
 きっと私は戻ってくるだろう。何度別れを告げても、どれだけ離れていこうとも。私は、私は、私は。ふつうの人生を。ふつうの男の人と結ばれて、ふつうに幸せになって、ふつうに死んでいく、人生を。

「おまえの幸せは、外にはない」

 ああ、知っている! あの日、幼い私が、門を開けてこの世界に迷い込んだその日から! 真っ白なあなたの頬にくちづけたその日から!
 俯いた顔を上げた。美しい曲線を描く白い頬が微笑んでいる。彼の透明なまなざしに映った庭の緑が、優しく私をすくい上げ、そして絶望の中へと落としていく。