穏やかに流れる川に石を投げると、三回跳ねて底に沈んだ。


石の跳ねる音は男の想像以上に大きく響いた。けれどまた、想像以上の静かさで音は消え、石は底の見えない流れに飲まれて消える。静寂が辺りに満ちて、他に何もない世界には男の僅かな呼吸音すら響かなかった。目の前に広がる川の流れはそれと分からないくらい静かにゆっくりと続いている。
哀しい気分だった。それでいて、この静寂のように落ち着いた気分だった。
河原に座り込み、幼い子供のように膝を抱えて顔を埋めた。ため息をつくと、白い息が目の前に広がる。寒いのだ。だが鳥肌は立たない。
河原。広い川。他に何もない。寒い。自分一人。落ちていく記憶。それらの事実が頭の中で歯車か何かのようにくるくる回って噛み合った。
「ああ、そうか」
とても簡単なことだったのだ。
「そうか、ここは、彼岸とか言うところなのか」
白い息を吐く。
「俺は死んだのか」
「そうだよ」
返事は、男の後ろからだった。
驚いて振り向く。いつの間にか、黒い人影がそこにあった。上から下まで全てが黒く、死神と言う言葉が脳裏をかすめた。その人影にあるはずの顔を見る勇気は男にはない。慌てて視線を逸らした。緊張しているのかもしれない、発した声は固かった。
「誰だ、あんた」
人影が僅かに身じろぎする。肩を竦めたのだとしばらくして理解した。
「さあねえ。実は俺もいまいち分かってないのさ」
「は?」
「死神だとか悪魔だとかいろいろ言われるがね、俺だってよく分からん。なあ、あんたは俺を何だと思う?」
質問に質問で返される形になり、男は拍子抜けした。
おそるおそる視線を上げ、人影の顔を見る。だが、人影は黒いフードを目深に被っていて、顔はよく分からなかった。見えるのは顔の口当たりで、その肌の色は死人のように血の気がない。不思議と恐怖や嫌悪は抱かなかった。
「そりゃあんた……」
「うん?」
「……いや、何でもない」
呆然とした声で質問に答えようとしたものの、答えなど知っている訳がない。結局、男は黙った。人影も黙った。



河原は、異常なほどに時間の流れが緩やかだった。
何も変化が無いからかもしれない。川の水は相変わらず静かに流れ、男と人影以外、誰もいないし誰も来ない。一分経ったのか一時間経ったのか、あるいは一日経ったのか。それさえ曖昧で、明瞭すぎるほど明瞭な意識は何もしなければ狂ってしまいそうだった。
座り込んだまま、てごろな石を拾う。なんの変哲もない灰色で丸い石だ。手に馴染まない冷たさとざらりとした感触が心地良い。一度握りしめた後、それを目の前の川に投げた。二回跳ねて水底に沈んでいった。
「なあ、俺はいつまでここにいれば良いんだ?」
ふと思ったことを、男の後ろに立ち尽くしている人影に訊ねる。いくらかぶりに開いた口に冷たい空気が流れ込んで冷たかった。人影はぼそりと呟くように言う。
「船が来るまで」
「船?」
「ああ、この川を渡るための船だ。それに乗って、あんたは向こう側へ行く」
「じゃあ、その向こう側って言うのは天国とか、地獄とか、そういう所があるのか?」
「どうだかね。俺には向こう側を知ることは出来ないからな。ただ、死んだらみんな、向こう側へ行く」
人影は川の向こうをけだるげに指さした。
「その先のことは知らんよ。もしかしたら、天国やら地獄やらがあるかもしれないし、無いかもしれん」
「……そうか」
安堵ともなんとも言えない溜め息をつく。もう一度石を、今度は二つ掴んで一気に投げた。石は二つとも一度も跳ねることなく沈んでいった。更に溜め息が口から零れる。
人影は言う。
「なんだ、あんた、天国やら地獄やらに興味があったのか?」
悪いな、俺は何も知らないんだ、と謝る人影に、男は首を横に振った。
「そう言う訳じゃない。ただちょっと気になっただけだ。自殺した人間は、地獄に落ちないのか、とかな」
「ほう。つまりあれか、あんたは自殺に興味があるのか」
「ああ、何せ、俺自身が自殺した人間なんだからな」
人影は言葉を発しなかった。もしかしたら返答に困ったのかもしれない。自然と自嘲が顔に浮かび、死ぬ瞬間の感覚を思い出した。ビルから真っ逆さまに落ちていく、耳元でびゅうびゅう鳴る音、流れる景色、全てを失っていく虚脱感、走馬燈のように走り去る記憶、そして、
「来月、結婚する予定だったんだよ」
どれだけ酒を飲んでも、煙草を吸っても、いつも笑ってくれた彼女の笑顔が、一瞬頭の中に浮かんですぐに消える。そして二度と思い出せなくなった。優しい彼女を置いて逝った自分には思い出す権利などない、と自分自身に暗に言われたような気分だった。
「俺にはもったいない、優しくて、綺麗で、素敵な女性だったよ。もう結婚式の詳細も決まってた。白いウエディングドレスと白無垢を着る予定だった。着せる、予定だったんだよ」
「幸せじゃないか」
「ああ、幸せだったよ。でも、駄目だったんだ」
胸が痛む。
「昔からそうなんだ、何をやっても満たされない」
「何が満たされないんだ?」
「分からない。ただ、どこかがぽっかりと開いていて、それを埋めるためにいろいろやった。だけどいつまで経っても塞がらないから、忘れようとしたよ」
「それで、あんたは忘れられたのかい?」
「いいや」
発した声は男が自分で思ったよりもずっとずっと、泣きそうな声だった。
「いいや、何も、変わらなかった。むしろ、穴が広がっていくばっかりだったんだ」
それをなんとかしたかっただけなのだ。それだけで、男はビルの屋上から、何の迷いもなく体を投げた。そうしてなんてことはないかのように死んだ。
口が寂しいと思った。いつも吸っていた煙草が無いのだ。いくら彼女に、体に悪いから止めなさいと言われても止めることが出来なかったものがここには無い。いつもそうしていたように、口を覆うように手を動かす。けれど、それが逆に空しさをよりいっそう強くする。無い物ねだりはどこまでも、男の中にぽっかりと開いた穴を広げていく。
呼吸するのさえ苦しかった。喉の奥に何かがつっかえているような感覚はまるで、泣く寸前苦しさに似ていた。唇を噛み締めて耐える。胸が無性に痛かった。
不意に背後の人影が動く気配に視線を巡らせると、人影が男の隣に移動していた。およそ一メートルの距離を開けて座る人影は、窮屈そうに膝を立てて座っていた。その似合わない格好に、男は思わず苦笑した。
「何をやっているんだ、あんたは」
「さあねえ。ただ、こんな格好をして石を投げたら、あんたと同じ気分になれるかと思ったんだよ」
そう言いつつ、黒衣から細い手が伸び、石を掴む。やはりその手は血の気がなかった。灰色の石を指先で弄びながら、人影は続けた。
「俺はあんた達のように生きている訳じゃないからな、よくは分からんよ。その穴って言うのも、埋まらない空虚なヤツってのも」
ひゅっと人影の腕が振り上げられ、石は一直線に川に飛び込んでいく。ぽちゃん、と石が着水する音が静寂に響いた。
「でもなあ、一つだけ分かるよ。あんたはそこで死ぬべきじゃなかった」
「…………」
もう一度、人影が石を掴む。男もそれにならった。わずかに震える手が、石をつかんで握りしめる。
「長くここにいるけどなあ、ここにやって来る連中を見るたび思う。死んでいい人間なんて、本当はどこにもいないんだとな」
びくりと、意識しないうちに体が震えた。それを知ってか知らずか、人影は続ける。
「たとえそいつが悪人だろうが善人だろうが、誰か一人が死んだらその分、そいつがいた場所は空っぽになっちまうだろう。誰にもその空っぽを、本当の意味で埋めることなんかできやしないのさ」
人影は手にしていた石を軽く投げてはキャッチし、投げてはキャッチしている。それを見つめているうちに視界のピントがぼやけて何もかもが曖昧になった。汗ばんだ手のひらから握りしめていた石が滑り落ちた。思考が止まり、頭の中が真っ白になる。ただ静かに、人影の言葉が頭の中で響いた。

「あんたもそうさ。あんたが死んで空っぽになった場所を、いったい誰が埋められるって言うんだ?」

ぼんやりとした頭の中で、ふと、友人を思い出した。普通のメンソールの自分とは違う、僅かにバニラの香りのする煙草を銜えた友人をだ。
彼は自分が死んだことを悲しんでくれるだろうか。泣いてくれるだろうか。人に自分の弱みを見せたがらない彼のことだから、人前では泣かず、じっと耐えているに違いない。
何故か、思い出せなかった彼女の笑顔が今だけは確かに思い出せた。彼女だってそうだ。この先を一緒に生きるはずだった女性は今もきっと、泣いているだろう。涙もろい女性だったから。

彼ら二人はどうやって、欠けてしまった男の分のスペースを埋めるのだろうか。

男は、彼ら二人や、男に関わった人全てに埋まらない穴を作ってしまったのだ。かつて男が苦しんでいたような、何をしても埋まらない虚ろな穴を。彼らは苦しむだろう。何をしても埋まらない穴を埋めようと、何でもするだろう。そして何をしてもその穴が消えないことを知った時、彼らに残された選択肢はほんの僅かだ。
だんだんと、目の前が霞んでいく。みるみるうちに視界は歪み、何も見えなくなった。泣いているのだ。自覚した瞬間、言葉に詰まり、まるで子供のように喉の奥からしゃくり上げる。
心の底から彼女に、彼にもう一度思った。けれど、もう戻ることなど出来やしない。生きている人間と死んだ人間の間には、越えられない壁がある。それを越えることなどできる訳がなく、いくら男が再会を望んでももう遅い。
そして、生きている彼らがいくら望んでも、彼らの空っぽは埋まらない。ずっと空いたまま、虚しいままで生きていく。生きていた頃の男がそうだったように。
「なあ、俺は一体、一体どこから間違っちまったんだ?」
頬を流れる涙が無性に熱かった。それを拭おうとは思わなかった。ただ、流れて流れて、立てた膝に落ちる。胸はもう痛くない。代わりにあの空虚な穴がさらに大きくなったような気がした。
人影は何も答えなかった。立ち上がり、手にしていた石を投げる。まるで男がしていたかのように、石は三回、水面を跳ねた。音は男を責め立てるかのように強く、静寂の中で響く。
人影はゆっくりと川へ一歩踏み出す。男を見る訳でもなく、ただ、低い声で嘯く。

「祈ってやれよ。あんたを愛してくれた人達が、幸せになれるように」

静寂の河原にはただ一つ、男のすすり泣く声だけが響く。
ぼやけた視界の向こう側、小さな船がゆっくりと、近付いてくるのが見えた。