階段を上る。一段一段を踏みしめる。清潔な廊下の、壁の色が視界を白く責め立てる。抱きしめた花束の甘い香りが漂う終末のにおいをかき消した。
 いつものリズムで廊下を歩く。体に染みついた行動はきっと目を閉じていても出来るだろう。その歩みの先にいる人を思うと、愛しさと不安の入り交じった気分になった。喉が渇く。抱きしめる花を強く握りしめる。足は止まらない。
 病室のドアを開けると、まっさらな色とまぶしい日差しが目に飛び込んできた。


 ボロボロになった写真には、どこで撮ったのか、見事なオーロラが写っていた。
 黒に似た藍色の空で揺れるオーロラは、様々な色が混ざりあって複雑な色彩を成している。昔写真家だったという老人が自分で撮ったものだという。その写真を手に、老人は窓際の安楽椅子で一日を過ごすのだ。
 安楽椅子の上で老人は、これ以上ないほどうれしそうな表情で眠る。目が覚めると悲しげな表情でオーロラの写真を眺める。それの繰り返しだ。この施設の中で彼に声をかける者は限りなく少ない。老人は自分の周りが変わり、音にあふれることをひどく嫌っているからだ。人の声も彼にとっては一つの雑音に過ぎない。
 彼の充足に満ちた寝顔が、悲しげに目を伏せるその横顔が、頭に焼き付き記憶から消えない。老人の安息は彼の世話をする戸田やほかの人間、ましてや同じように施設に入った老人たちの手によって与えられるものではないのだと、その表情が物語る。
 唯一の救いは、老人が介護者である戸田を我が孫のように慈しんでくれることだった。血のつながっていない他人だからこそ愛せるのだと老人は笑った。「そうでもなければ今頃、誰も生きていないだろうさ」
「きみが生まれてきたのも、きみの両親が出会ったからだろう。すごいことじゃないか、赤の他人と出会って恋をして、それで人が生まれてくるのだから」
 そんな風に、老人は時々戸田に語りかけてきた。歳相応のゆったりとした口調だったが、穏やかな声は老人とは思えない透明さだった。口数の少ない戸田に彼は怒ることも呆れることもなかった。話を聞いているかどうかはその人の顔を見れば分かるのだとも言っていた。
 彼が語りかけてくるのはまれなことだったが、時間をかければいくらでも彼のことを知ることは出来た。昔写真家だったこと、しかしそれはただの道楽だったこと、金持ちしかいないような介護施設に入れるくらいには裕福な家の生まれだということ、五歳年下の妹がいたこと。ただ、老人に残された時間は少なかった。それを知っているだろう老人自身は飄々としたもので、いつものように窓際で眠り、写真を眺め、そしてまた眠った。眠るときには、一枚しかないその写真を大事そうに、宝物を隠すかのように、手で覆う癖があった。
 大切な写真、それについて老人が話してくれたのは夕暮れ時だった。


 その日、戸田が職場に到着したのは夕方頃だった。週に一度の夜勤だったからだ。
 ロッカールームにいた同僚といつものように挨拶しあい、横を通り過ぎようとしたところで同僚があら、と声を上げた。
「花のにおいがするわ」
 言われて戸田は自分の服のにおいを嗅ごうとした。それを見て同僚が笑う。どうやら戸田の挙動が予想外に面白く映ったらしかった。
「もしかして、お見舞いに行ってきたの?」
 無言で頷くと、同僚はいたわるような笑みを浮かべて軽く肩を叩いた。無理しないようにね、と一言おいた彼女は、静かにロッカールームを出ていく。その背中を見送り、残された言葉を頭の中で反芻した。そして、数十分前までいた病室を思い出した。光で明るい病室にいるであろうその人の姿が頭の中に浮かんで消えた。
 この施設で働くようになってから、入院しているその人の元へ行く回数は減ってしまった。その分を取り戻そうとするかのように戸田は仕事が休みの時は病室に入り浸っている。あまりにおいの強くない花を選んだはずだが、しばらく抱いていた上に、出勤する寸前まで病室にこもっていたのだ、においが移っても不思議ではない。
 今頃なにをしているだろうかと思いを馳せる。おそらく治ることのない病を抱えたその人を、なぜこうも愛してしまったのか戸田にもよく分からない。ただ、気づいたら後戻りが出来ないところにまできてしまっていた。戸田に似て話すことをあまり好まないその人は、今も病室で一人黙って時を過ごしているのだろうか。そう考えると自分の仕事を放り投げてでも病室に顔を見に行きたくなる。そんな衝動を押さえているのは自分の仕事に対する責任と、愛しさとは逆の、後悔に似た不安定な感情だった。
 戸田は頭を緩く振り、なにもかもを思考の外に追い出した。まっさらな頭になって、ロッカーの中のエプロンを身につける。仕事をしなければならない。


 老人は今日も窓際にいた。談笑するほかの入居者たちから離れた窓際は、何かに覆われているかのように静かだった。微動だにしない老人は遠目からは寝ているように見えたが、近づくと顔を上げた。目が合い戸田が頭を下げると、彼は目尻を下げるようにして小さく笑う。
 時刻は五時を回っていた。
「きみには大切な、愛しい人はいるかい」
 穏やかな声で老人は戸田に語りかけてきた。老人の言葉はいつも唐突だ。安楽椅子の横に、戸田は黙って膝を折り、落ちかけた老人の膝掛けを掛け直す。大切な、愛しい人という言葉に、まっさらになったはずの頭には、病室にいるであろう人の顔が浮かんできた。
 顔を上げると目が合った。答えることのない戸田に、それでも老人は満足そうな顔をした。
「わたしは、もう、夢の中でしか会えないからね」
 視線を老人の膝へ落とす。老いた指先がオーロラを撫でた。毎日のように手に持ち続けた写真は端が切れ、色もくすみ始めている。それでも鮮明なオーロラが、藍色の空が、未だに老人の手の中で輝いていた。
「あの人は一度で良いからオーロラを見たいと言っていた。結局見ないままいってしまったが、どうしても見せてやりたかったんだ」
 見上げた先には悲しげな表情が浮かんでいるのだろうと顔を上げ、戸田は静かに目を見張った。老人は眠るときの安らかな笑みで戸田を見つめ返していたからだ。
 どうすればこんなにも穏やかな目で人に語ることが出来るのかという疑問がこみ上げてくる。だが問いは声となって出てくることはなかった。老人の愛する人とは一体誰なのかも分からないまま、彼が愛したであろう、大切な人を想像する。やがてそれは戸田が思い慕うその人と交差した。病室に入る度に戸田へと笑いかけてくれる人が確かな形を持って、頭の中で再生される。
「きみにもそんな人がいるんだろう。心の底から愛して止まない人が、いるんだろう」
 今度は頷いた。ふ、と笑う気配と共に老人は写真を両手に持つ。懐かしそうに目を眇め、明瞭な声で言った。
「夢の中で、わたしはいつも写真を持っていくのを忘れるんだ。今度こそ、忘れずに持っていかなければね」


 老人が息を引き取ったのは、それから一週間後のことだった。
 戸田がいつもより早く家に帰った、そのときに亡くなったのだという。故にその死に顔を見ることもなく、老人とは呆気ない別れとなった。年老いてはいたが、こんなにも早くいってしまうとは思っていなかった戸田はただ沈黙した。
「本当に眠ってそのまま死んでしまったような、きれいな死に顔だったよ」
 寝るときにはサイドテーブルに置いているはずの写真を、しっかり胸に抱いていたらしい。今度こそ忘れなかったのだろうと思うと、ほんの少しだけ安堵が浮かんだ。
 彼が死期を悟ってあんなことを言ったのか、戸田には分からなかった。ただ、慰めの言葉をかける同僚へうなだれ、老人の言葉を反芻した。
 オーロラを見ないままいってしまった、老人の大切な人とはいったい誰のことだったのか、少しばかり気になった。死ぬ一週間前の言葉と表情が頭の中から消えない。夢の中でしか会えないというその人は、妻か、あるいはそれに限りなく近い誰かか。考えるだけのはずだった思索は、いつの間にか老人の部屋に残されていた日記やアルバムをめくる手つきに変わっていた。
 老人の日記は五年ほど前で止まっていた。穏やかな語り口は日記の中でも健在で、文章を読むたびに頭の中で声が聞こえた。最後の日記は愛すべき人が一人亡くなったという言葉で終わり、その後にはなにもない白紙だけが残っていた。
 アルバムには何枚も写真が納められていたが、そのどれもが風景を撮った写真で、人が写っているのは若い頃の彼だろう青年と、恥ずかしげにほほえむ少女が写った白黒写真一枚のみだった。それ以外は、写真家らしいといえばらしい、美しい写真ばかりが収められていた。
「戸田?」
 部屋の片づけをしていると思ったのだろう、同僚がいぶかしげに声をかけてきた。アルバムを閉じて振り返る。同僚はほとんど片づけられていない部屋に嘆息し、なにやってたのさ、と尋ねるニュアンスを持たせずに呟いた。
 無言の戸田を気にすることなく、同僚は言う。
「この人、どうなるのかしらね。お金はあるけど、奥さんいたわけじゃないからご家族もいないし」
 沈黙し続ける戸田へ肩を竦めつつ彼女は続けた。
「ずっと独身だったのよね。若けりゃ良い男だっただろうにもったいない」
 それでおしまいだと言わんばかりに、同僚は背伸びを一つして部屋を片づけ始めた。
 同僚が動く姿を後目に戸田は立ち尽くす。妻はいなかったという同僚の言葉に、さっきまでの予想が音をたてて崩れた。老人が持っていったオーロラの写真。それを受け取る、彼にとって大切な、愛しい人。妻ではない誰か。独身であり続けた男。彼が示した人は、オーロラの写真を受け取るはずだったであろう人は、いったい誰だったのか。同僚が呆然とした戸田を不思議そうな目で見ていた。とにかく片付けを手伝おうとして、アルバムを抱えていることに気づきそれをテーブルに戻した。
 そのアルバムからするりと写真が落ちたことに気づき、膝を折って手を伸ばす。たった一枚残っていた白黒写真だ。モノクロ故に白い顔には、幸せそうな笑顔が浮かんでいる。よく見るとどことなく似た顔立ちをした二人は、寄り添って戸田を見つめ返していた。
「あら、それ、若い頃の写真? やっぱり良い男じゃない」
 同僚の声を聞き、ぼんやりと見つめながら写真を裏返す。日付のあとには妹だろう、一人の女性の名前が日記と同じ字で書かれていた。


 階段を上る。一段一段を踏みしめる。清潔な廊下の、壁の色が視界を白く責め立てる。抱きしめた花束の甘い香りが漂う終末のにおいをかき消した。
 いつものリズムで廊下を歩く。体に染みついた行動はきっと目を閉じていても出来る。足は止まらない。
 ゆっくりを瞬きをするその瞬間に想像する。夢の中でしか会えない大切な人とはあの老人にとってどんな人だったのか。白黒の写真と、五年前を境にぱったりと止めてしまった日記を思い出す。あの写真に写っていたのはおそらく、五年前に亡くなったという彼の妹だ。古ぼけた写真の中で笑う二人は、目元がよく似ていた。
 写真の中の若い青年は老人が眠っているときに浮かべる笑みにそっくりだった。身を寄せ佇んでいた少女の姿が、日記の最後に書かれた愛すべき人のイメージに重なって溶け合う。
老人の大切な、愛する人とはその妹だったのではないだろうか。
 日記の最後のページで愛する人ではなく、愛すべき人だと表現した彼の姿がすんなりと想像できた。家族として愛すべき人を、赤の他人に恋するように愛してしまったのではないのだろうか。
 もちろん、それを確かめるすべを戸田は持っていない。そしてこれ以上、持つ必要はないだろうとも感じていた。生きている戸田にはただ彼が再会出来たのか否か、それを想像するしかない。
 病室のドアを開けると、まっさらな色とまぶしい日差しが目に飛び込んできた。
 開かれているらしい窓から風が入り込み頬を撫でた。ベッドの上で人が動く気配がした。その瞬間、うれしさと悲しさが入り交じった複雑な気分に襲われる。あの老人はいつもそれを感じていたのだろうか。夢の中で愛しい人に会ううれしさと、現実に覚めた瞬間の悲しみを一日のうち何度も感じていたのだろうか。やはり戸田に知るすべはない。だが彼が感じていたかも知れない、血の繋がった人を愛してしまった焦燥感や絶望感、それらすべてを包み込んでしまう愛情はなにもせずとも理解できた。

「兄さん」

 光の中でその人が笑う。絶望に似たゆるやかな優しさが笑みをたたえてやってくる。
 風に揺れたカーテンがまるで真っ白なオーロラのように見えた。