「羽住は、絵に恋したことある?」

 三木の問いは唐突だった。頭の中で彼の問いを反芻した数秒後、羽住の口からこぼれたのは否定でも肯定でもない、間抜けた声だった。良い年をした男が発するには妙に高い、間抜けと表するほかない声だ。よほどおかしかったのか、三木が笑いを堪えるような表情になる。その拍子に壁から外そうとしていた絵がするりと彼の手から滑り落ち、重い音を立てて床に伏した。あちゃあ、と、今度は三木が間抜けな声を上げる。怪我はないかと彼に問うと、首が緩やかに横に振られた。幸い、落ちた絵画にも、その下のフローリングにも傷はなかった。
 取り外そうとしていたのは木枠にはめ込まれた女性の絵だ。何も纏っていない女性の上半身が描かれ、その周囲や女性の裸体には名も知らない花々が散らされている。色鮮やかに描かれた中、羽住の目を引いたのは色の洪水のような花の群れや慈愛の笑みを浮かべる唇ではなく、黒く塗りつぶされたその目元だった。女性らしい丸みを帯びた頬や体の輪郭、うっすら色づいた肌を滑り落ちるダークブラウンの髪の毛の一筋まで、丹精込めて描かれたのだと絵に疎い羽住にでも分かる。だからこそ、まるで何も考えないままただ絵の具を擦り付けたような、その黒い目隠しが異彩を放っていた。無粋だ、とまず思った。これが芸術というものなのかもしれない、と納得するには、あまりにも不釣り合いだったのだ。
 だが、三木は心の底から愛おしげに、その絵に触れる。少し荒れた指先で、女性の頭頂部から毛先まで髪を辿り、複雑な色が絡まった肌を撫で、薄紅色の唇をことさら丁寧になぞった。それが妙に羽住の目に残る。その絵画にどのような事情があるにしろ、三木がそれを大切にしているのだということは、第三者の目からでも明らかだった。
 だというのに、彼はこの絵を捨てるのだと言う。
「本当に良いのか」
 静かに問えば、彼はうっすらと笑った。
「いいんだ」
 もう一度唇をなぞった彼は、そうすることが癖になっているのだろう。不意に唇をなぞるのを止めたかと思うと、じっと自分の指先を見つめた。つられて羽住も彼の指先を見た。肌が弱い彼は手荒れが酷い。絵画を生業とする以上水仕事が避けられず、いつでも手が荒れているのだと昔、聞いた覚えがあった。
「……いいんだ」
 羽住に念を押すというよりは、自分を納得させるように三木は繰り返す。苦しげな表情をしているのではないかと静かに覗き込んだ彼の表情は、予想外に微笑んだままだった。ただ、何もかもから解放されたような晴れやかさはそこにはない。何かを諦めた人の顔によく似ている、と思った。
 少しの間をおいて、三木は絵を羽住に差し出した。差し出されるままに受け取った絵は、思ったよりも軽かった。自分の手に渡ったそれを改めて見ればやはり目を隠す黒が異質だったが、遠目から見ればただ美しいだけの女性の姿は、実際は緻密な計算を経て色が重ねられた末に描かれたものなのだと実感する。想像することしかできない女性の目はどんな色をしていたのか、考えた手が絵の女性に触れそうになったことに気付き、羽住は慌てて持ち直すふりをした。三木は羽住の行動の意味を知ってか知らずか、他の男の手の中にある絵をただ見つめ続けている。
「じゃあ、おれが処分するけど」
「ああ、頼む」
 三木が羽住に、自分の持っている絵を処分して欲しいと言い出したのはほんの二、三日前のことだ。彼が処分するには少し思い入れのある絵があるのだと言っていた、それがこの女性の絵だ。美術大学に通っていた彼の部屋には様々な作品がある。大学時代の自分の作品や、もらってきた誰かの作品、それらが飾られた中でも、特にこの一枚には強い思い入れがあるらしい。処分する理由を聞くことはなかったが、彼なりに何らかのきっかけや決意があったのだろう。
部屋の隅に転がった、塗りつぶしたように真っ白なキャンバスをなんとはなしに眺めながら、本当に良いのだろうかというわずかな躊躇いを覚えた。彼なりに、この絵を廃棄する理由はあっただろうが、彼の憂いを含んだ表情が妙に引っかかったのだ。本当に良いのか、と聞こうとして、羽住は唇を噤む。同じ質問を繰り返しても、彼の答えが変わらないことは想像できたからだ。
 言葉少なに、用意していたクラフト紙とガムテープで絵を包んだ後、三木は小さくありがとう、と言った。彼がようやく見せた安堵の表情に、羽住はただ、頷いただけだった。



 美術大学を出た三木と違い、ごくごく一般的な大学に通った羽住には、彼らの使う道具の扱い方はもちろん廃棄の方法も分からない。粗大ゴミだろうとあたりをつけてはみたが自信はなかった。何より、絵画をゴミとして出すのが情緒のないことだと考えてしまったのだ。結局、絵画を捨てるのに確実な方法を探った羽住は、同じく美大出身の友人に処分方法を直接教えてもらうという結論に達した。
 快く引き受けてくれた美大出身者たる友人は、釘抜きやドライバーを片手にふらりとやってきた。それでどうするのかといえば、キャンバスを固定する釘を抜き、木枠とキャンバスに分けて廃棄するらしい。手馴れた様子で作業台の上でクラフト紙を開けた彼は、絵画を吟味するようにその前で腕を組み、にやりと笑った。伸びた前髪の間から覗いた目が、悪戯を思いついた子供のような光を宿している。
「三流ゴシップ誌のアレみたいだよな、この目隠し。俺、こういうの大好き」
「趣味悪いなあ」
「でも良いじゃん。キレイに取り繕った見た目を台無しにする感じとか、やったヤツの才能を感じるね」
「確かに台無しといえばそうだけど。そういえば、その目隠し、違和感ないか」
 思ったことを素直に口にすると、彼は上機嫌な様子のまま、釘抜きの先端で女性の頭部を軽く叩いた。これから破棄するものとはいえ、あまりに無造作な扱いに身を強張らせると、それをからかうように彼は片手で木枠を掴んで絵を持ち上げた。やはり釘抜きの先端で女性の頭部から髪の毛を伝い、腹部までをなぞる。つられて羽住も、先端が示す部分を点々と見た。違和感と自分で口にしてようやく分かったが、筆で描かれたはずの女性の姿に対して目隠しだけ、筆ではない別の何か、固い物でこすりつけたような筆跡なのだった。
 その筆ではない別の何かが指なのではないか、とすぐに考えたのは、三木の、女性の唇を辿る動作を連想したからだ。
「昔の話なんだけどさあ」
 釘抜きを作業台の上に置き、絵を掲げた男は眩しそうに目を細める。
「人が描いた絵を真っ白く塗りつぶしたことがある」
「は?」
 ずいぶんと間抜けた声が自分の口から出た。そういえば三木と会った時もそうだった、と既視感を覚えながら、絵を片手で掴んだままの彼を見やる。今にも鼻歌を歌い出しそうなほど上機嫌に見えたが、しかし本当にそうだろうか、という懐疑心が沸き上がってくる。少なくとも、上機嫌に語るような内容ではないことは確かだ。
「この絵の目隠しどころじゃない、本当に、絵そのものを白く塗りつぶしたんだ」
「出来るものなのか?」
「チタニウム・ホワイトっていう、隠蔽力に優れた白色があるんだ。そのチューブ二本まるまる使ったから、そりゃあもう真っ白だ」
「出来るのはわかったけど、でも、人の絵なんだろう。どうしてそんなことしちゃったんだ」
「今でも分かんない。でもその時だけ、なんでだか知らないけど、そいつが描いた絵を台無しにしてやりたくてさ」
 想像したのは見たこともないアトリエだ。人がいなくなった頃合いを見計らって、絵が置かれたアトリエに忍び込む。最低限の電気をつけ、イーゼルに架けられた絵に近づく。並んだ数々のイーゼルの中、色鮮やかに描かれたキャンバスの目の前に立つ。伸びた髪に隠れがちな黒い目が、じっと見つめるキャンバスに、描かれているのは微笑む女性だ。夢見るような柔らかな眼差しが、物言わぬ唇が、それでも静寂の中語りかけてくる。ああそういえば、彼の問いに答えていなかった、と不意に思い出した。
 絵に恋をしたことはあるか、と、あの日、三木は羽住に問いかけた。そして羽住は、それに答えていない。
「いや、違うな。憧れてたのかもしれない。俺には描けない絵だった。そういう絵を描くヤツだったから」
「……」
「多分、俺は、あの絵が羨ましかったんだ」
 言い切った彼は絵を作業台の上に静かに横たえ、深く息を吐いた。沈黙の後、もどかしいほどゆっくりと彼の手が動き、骨ばった指が黒い目隠しをなぞる。ああやっぱりだ、と一人納得した。やはり、指でこすりつけたような筆跡だった。
「良いこと教えてやるよ、羽住。この絵、俺が描いたんだ」
「……うん」
「でも、目を潰したのは俺じゃない。青い目をしてたんだ、それを、誰かが黒く塗りつぶした」
「……」
「卒業するときのごたごたで、この絵だけどっかに行ってたんだ。ちょうど良かったよ、俺の手元に戻ってきて。これで解体できる」
 彼の独白は、驚くほどあっさりと羽住の中に収まった。同時に彼と、目を塗りつぶした誰かとの間にあったであろう出来事の一端を掴んだ気がした。彼は何も言わないが、この絵が誰の元にあったのか、おそらく分かっているのだろう。
 三木の問いに答えるとするならば、羽住は否、それのみだ。ミロのヴィーナスを美しく思う心も、ピカソのゲルニカに苦しみを覚える心も、恋や愛と称するにはあまりにも単純で、上辺だけの感情に過ぎない。それらに自分のすべてを注ぎ込むような情熱は生じることなどなく、絵画の前を通り過ぎればすぐに忘れてしまうほど、あっけないものばかりだ。目にした瞬間の感動はあれど、やはりそれは感動でしかない。羽住が絵画に抱く感情の類は、誰かを深く思う恋情とは根本的に違う。
 だからだろうか、憧れ、羨ましいと思った絵を塗りつぶしたという彼の心情を、羽住は正確には理解できない。聞いたとしてもやはり本当の意味で理解することはできないのだろう。だが、彼の言葉が深く突き刺さる。憧れた絵を台無しにした彼と、目を塗りつぶしてなおこの絵に思い入れを持っていた三木と、二人の根底には同じものが流れているような気がした。
 彼が塗りつぶしたという白いキャンバスはきっと、今も三木の部屋の隅に置かれているのだろう。
「なあ、山崎」
「うん」
 おそるおそるかけた声に、彼はいつもの調子で答えた。向き合った彼の目を見つめると、黒い目が羽住を見つめ返す。様々なことを問いたい思いを飲み込み、かける言葉は一つだけだ。彼は、それ以外の言葉にはきっと答えない。
「山崎は、絵に恋したことって、ある?」
 かけられた言葉の意味をすべて理解しているかのように、彼はにっこりと笑う。あのとき、三木にも同じように問いかけてみれば良かったのかもしれない。そうすればきっと、彼も山崎と同じように笑っただろう。何かを諦めたような笑みではなく、満ち足りたような、解放されたような、それでいて後ろ向きな達成感に満ちた笑みを。
「あるよ」
 そうして彼は絵に手を伸ばし、初めて女性の唇に触れた。盛り上がった油彩の固い感触、それを味わうような指の動きが、いつか羽住に問いかけた三木のそれと、よく似ていた。