7月29日の、午前11時28分。田舎によくある無人駅の、上り線のホーム。いつの頃からかは知らないが、必ずその日、その時間に、立ち尽くす男がいるという。
 白いシャツ、黒いスラックス、黒い革靴。手には花束を持ち、時間を気にした風に、こじゃれた腕時計を何度となく見る。整えられた黒髪に、まだ若い顔立ちの、男がそこに立っている。
 私の視線に気付いたふうに、俯き加減だった男がふと顔を上げたかと思うと、その黒い目でこちらを見た。この暑い中汗の一つもかかぬ、真白い顔だった。

「やあ、今年も会ったな。相変わらずの顔だ」

 にっこり笑った男はまるで、昨日ぶりに会った友人に話しかけるような気軽さで私に声を掛ける。私は無言のまま小さく会釈し、男から少し距離をあけて同じように立ち尽くす。今年もまた会った。一年ぶりに顔を合わせた男は去年とまったく変わらぬ様子で、次に来るであろう電車を今か今かと待っていた。
 電車はきっかり10分後、11時38分にくる。この男は律儀なようで、必ず10分前にこのホームに来る。赤い、気障ったれたバラの花束を持った男は、不安と緊張と期待の入り交じった顔で、電車を待つ。

「しかし君も物好きだなあ。去年も、一昨年も、その前の年もそうだった。君もおれと同じように、誰かを待っているのかい」

 ええ、まあ、と濁しておく。毎年のことだ。7月29日の、午前11時28分。その瞬間を待って、私はこの無人駅の上り線のホームに足を踏み入れる。男の黒い目は私をじっと見つめていた。それを感じながら、私は黙って線路を睨みつける。祖母譲りだという切れ長の目は、鋭さを増していることだろう。それもまた、毎年のことだ。すべて、すべて、毎年のことだ。

「相変わらずだんまりか。つれないやつだ、君は。まるで……いや」

 男が誰かを待っているというのならば、私もまた、待っているのだろう。ただしそれは人ではない。何かの事象、現象、あるいは遠い昔の約束が、姿形を持って現れるのを待っている。それを男に話したところで、特に何の意味もない。理解されようとも思わない。説明する気はさらさらなく、それ故に私は黙り込む。男の発した言葉にはそれよりも少ない言葉で返し、時には沈黙でもって答える。何年も続いた言葉の投げかけと沈黙は、男と私の間に、どんな親愛も関係性も生むことはなかった。誰かを待つ男と、何かを待つ私。二つの存在が7月29日、午前11時28分に、とある田舎の無人駅、上り線のホームで出会う、ただそれだけの事実が並んでいるという光景がすべてだった。
 男が黙れば、必然、そこには静寂ばかりが座り込む。遠くで蝉が鳴く声も、風が緑の葉を揺らす柔らかな音色も、昼食を作る生活の吐息も、聞こえながらも静寂に呑み込まれる。
 そうしている間に各駅停車の上り電車はやってくる。線路の向こうにゆらゆら揺れながら走ってくる電車に、男は俯かせていた顔を上げ、そこにかすかな歓喜を滲ませる。かさかさと、透明なセロハンで包まれた花束が音を立てた。赤いバラの花びらが一枚、ひらりとホームへと落ちたのが見えた。
 電車は私や男の思いなど知る由もなく、いつものルーチンワークをこなす。風を呼びながら走り抜け、ブレーキをかけ、決まった場所で停車する。田舎の電車のドアは自動では開かない。内側か外側のボタンを押して、降りる人、乗る人が、自分から開けるものだ。男はじっと、2両しかない電車を見つめていた。誰かが降りてくるのを待つかのように。誰かが、内側のボタンを押して、電車からホームへ足をそっと降ろすのを見逃さんと言わんばかりに。あるいは誰かが、男を迎えようとドアを開ける姿を待ち望むかのように。
 だが、電車のドアはどれも開くことはなく、何事もなく轟音を立てながら走り去っていった。夏の熱い空気を巻き上げ電車はあっという間に小さくなっていく。見えなくなるまで目で追いかけていると、少し離れた先に立っていた男が、ふ、と軽いため息をついたのが分かった。

「……ああ、そうだよなあ」
「……」
「そうだ、それで良いんだ。ああ」

 花束を持った手をだらりと垂れ、男は空を仰ぐ。ホームを覆う屋根の向こう側は、目が眩むほどの晴天だった。

「良かった、今年も君は、来なかったんだな、ミツ」

 喉を反らして空を見上げる男の横顔に、安堵とも失望ともとれる笑みが浮かぶ。満足げな声色は、予定調和を見守る者のそれだった。11時38分着の電車が無事過ぎ去った。それはつまり、男の目的の一つの達成なのだ。
 間抜けなほどに上を向いていた男が、ぐるりと勢いよくこちらへ顔を向けた。黒い目にはぎらぎらとした光が宿り、この暑さに一筋の汗もかかない白い頬は、誰かに語りたくて語りたくて仕方ないという思いを男の周りに散らしている。沈黙を貫く私に、男はさながら機関銃のような勢いで言葉を連ねた。

「今年もミツは来なかった。おれの恋人、いや、愛人、いや、おれの思い人。ミツ。ミツは来なかったんだ」
「……」
「ああ、去年も言ったな君に。君に似た、涼しげな目元のひとなんだ、ミツは。いつもぬばたまの黒髪をひとつにひっつめて、古くさい色の着物を着た、料理の上手い女なんだ」
「……」
「君の目は本当によく似ている。おれがいくら愛を告げても、体に触れても、ミツはその目で俺を見るだけなんだ。一度としてあいつからおれに触ってはくれなかった」
「……」
「もの静かな女でな、自分の縁談が持ち込まれたときだってその鉄面皮を少しも動かさなかった。おれは何度も言ったのに。それは幸せになれないって。そんな結婚はミツの幸せにならないって言ったのに、あいつは泣きも笑いもしなかったんだ。知っていますって、それだけ言ってさ」
「……」
「だから、一緒に、誰も知らない土地に逃げて幸せに暮らそうと言ったんだ。7月の29日の、11時28分の上り線、そこで待っているから来てくれと言ったんだ。そうしたら一緒に乗ってどこまでも逃げようと。だが、来なかった」
「……」
「そうだよな、ミツ、お前は来ないんだ。どんなにお前がおれのことを愛していても、こんな軟派な男のことを愛していても、お前はおれと一緒には来ないって。おれがどれだけお前のことを好きだって分かっていても、お前は絶対に、おれの思いを受け取ってはくれないって」
「……」
「そういう女なんだ。あいつは。ああ、ああ、良かった、今年もおれの元へは来なかった。そうだ、おまえはそうじゃなきゃ。ミツ。ミツ。おれの思い人。美しい女。おれへの愛を抱えながら、一度もおれに靡かなかった女。おれの元に来ない、それこそが、おまえの愛情なんだ」

 もはや男は私には言葉を語っていない。男は、男自身に語り聞かせているのだ。端から見れば、己を納得させようとしているような姿だろう。狂人じみた語り口に、ぎらぎらと凶暴な光をちらつかせた目が、男が正気の沙汰ではないと告げている。私はただ、少し離れたところに立ち尽くし、男を眺めることしかしない。
 男は人を待っているという。それは確かに真実だろう。だが、回答で言えば半分しかあっていない。男は、誰かを待ちながらも、その誰かが来ないことを確かめるために待っている。分かり切った答えが分かり切った結果になることを知るために、何度も何度も何度も何度も、同じ日の同じ時間に同じ場所にやってくる。男の予想は的中し、それこそが正しい世の摂理だと満足げに頷くかのように、男は待ち人が来ないという事実を確かめ続ける。何度も、何度も、何度も。
 男が、抱えていた花束を地面に振りかざし、力を込めて叩きつける。セロハンが豪快な悲鳴を上げ、花がつぶれる生々しい音がその辺りに響いた。男が花束を、よく磨かれた革靴の底で踏みつけたのだ。バラは踏まれれば踏まれるほど強く香る。踏みにじりながら男は何事かを唱えていた。その一つ一つを耳に入れるだけの興味はなく、私は淡々と、男が奇行に走るのを眺めていた。

「……あんた、いつになったら成仏するんです?」

 これも、毎年のことだ。私の不意の一言に、男は電池が切れたかのように花束を踏みつけるのも、ぶつぶつ何事かを呟くのも止めた。狂気を浮かばせた表情から一点、その顔には穏やかさが広がっていた。緩やかに死にゆく人の、諦めの混ざった、優しい笑みだった。

「いつまででも。ミツが来ないことが分かる、そのときまで」

 男は知らない。男が愛した女はやがて縁談通りに結婚し、子をもうけ、孫の手を引いてこの駅まで、かつて愛した男を弔いに来ていたことを。
 男は知らない。男が愛した女はいつの日か、男が待ちかまえる駅の手前で、男が待ちかまえる電車に轢かれて死んだことを。
 それは男への贖罪だったのかもしれないし、彼女なりの矜持の示し方だったのかもしれない。たとえどれだけ愛した男だろうと、お前のところには行かないと、お前の手を取りすべてを捨てて逃げるような惰弱な真似はしないという、決意の表れだったのかもしれない。いずれにせよ、男の待ち人は二度と、この駅には来ない。ましてや、電車に乗って男を迎えに来ることなど。
 いつの間にか、男は消えていた。そこには落ちたバラの花束も、散った花びらのひとひらも、残されてはいなかった。
 愚かな男だと、私は毎年のように思う。なんて愚かなのだろうと、笑いすら出てこない。そんなにも愛しているならば、迎えに行ってやれば良かったのに。無理矢理にでも連れ去って、そうしてどこまででも、逃げていけば良かったのに。結局最後まで待つことしかできなかった男は、ただ、それまでの存在だったのだ。だからこそこうして何十年も同じことを繰り返している。愛した女がいつまで経っても己の元へやってこないと言う事実に、わずかながらの愛情を見いだしては縋る。男の中の、ミツという女の偶像に縋り続ける。どれだけ愛を告げてもそれに答えず、己を愛していながらも一度として自分から男に触れることの無かった、目元の涼やかな黒髪の乙女という偶像に。
 男はもはや、ミツと呼ぶ女の姿も思い出せていないだろう。もはや黒髪の乙女はいない。寄る年波にぬばたまの黒髪は白く雪が降り、切れ長の目には皺がより、地味だという着物もよく似合うように歳を重ねたであろうことを、あの男は考えもしないのだ。
 私はただ、祖母譲りだと言う切れ長の目をこする。夏の幻はあっという間に消え去り、向こうのホームでは次の電車が来るというアナウンスが響く。これで終わりだ。私の今年の役割は、これで終わる。

 そうして私は花束を握りしめたまま上り線のホームを出る。下り線の電車の到着は近い。